腰の小康

起きると昼前で、起き上がると腰は楽になっていた。それでも数歩進むと(むろん腰のあたりの)どこからとも無く痛む。積まれた本がどさりと崩れた衝撃みたいな痛みだ。今までに知ったことがない感覚で恐い。


アメリカの広告はなんとなく気楽で好きだ。こういうインターネットのサービスで、唐突に表示されるものは大抵文字だけだ。英語で、何を書いてあるのかすぐに判読できない。だからしんどくない。

テレビで流れるものもシンプルだと思う。沸騰した湯に落としても壊れない懐中電灯、トラックに引っ張られても千切れないロープ… 概して私のみたことのある範囲でだけだけど。


昨日書いた日記の、一部分だけ文字が大きくなっている。どういう作為なんだろうと不思議に思う。


追加にて

英語が苦手だ。話せないし聞けないし、書けないし読めない。分かるようになりたいと思う。なので英語で日記を書いてみてはどうかと思いついた。

ふと思ったこと…教育テレビのこと、果物のアレルギーのこと、住んだ土地のこと… をメモしておく。

目が痛い

携帯電話ばかりを触っている。そこからツイッターを眺めている。

ツイッターを面白く思う。私じゃない誰かの遭遇した物事、それについて思ったこと。読んだ本や買った本、それらのタイトルや感想。素敵なレストランや喫茶店、そのメニューや雰囲気。ニュースになった出来事への応酬やらなんやらかんやら。

私の知りえないことや思いえないことがわらわらと流れ出てくる。へぇやらほぉやらと頭の中で発して、私は黙々と誰かの言葉を飲み込む。


あまりに不健康だ。だから辞めようーーひかえようと思う。他人事にゆったりとかかずらう時間は、本当は誰にもないはずだ。

だけど「ひとのこと」を読んで知るのは落ち着くことだ。黙々と個人の暮らしをしているよりも気楽でいられる。ひとりでいるのは息がつまる。ひとりでは知りえないことを知るのも、思いえないことを思うのも良いことだ。


さても私はなぜここに何かを書こうとしているのか。

誰に読んでもらうほどのこともない。ーー思うに人は、書くことが好きなんだろう。ツイッターやらフェイスブックやらをこんなにも多くの(と私には思える)ひとが使って、何かを書いている。驚愕ものだ。しかして私も例に漏れず、書くことが好きだというだけだ。有ったできごとを書く。思ったことを留めておく。それだけ。


昨日は買い物に行った。レジで、会計をしてくれている女の人が声をかけてくれた。抱っこをしていた子どもの名前を聞かれて、答えると、それはどんな意味があるのかと返された。そんなことを、いままでに聞いてもらったことがなかった。素敵な意味のいい名前だね、と言ってもらったこともあいまって嬉しく思った。


今日は腰痛になった。掃除機をかけていたら少し腰に違和感が出た。とんとんと手のひらで痛むところを叩いた。そうしたらめきめきと痛みが増幅していって、立っていられなくなった。歩けないほどの腰痛は初めてだ。一体何なのか。ぎっくり腰なのか、別物で骨か神経かがどうにかなったのか。分からないけど、湿布を貼ってじっとしていたらよくなってきた。

じっとさせてもらえてありがたい。やらなきゃいけないことは往往にしてあるのに、じっとさぼって、こうして遊んでいさせてもらっている。早く良くなってほしい。